「田園の憂鬱」の概要 1


4 梗概(あらすじ)

 ある夏、息苦しい都会の喧騒と重圧に疲れた鋭敏な彼は、田舎家の中で前後も忘れる深い眠りにつきたいと、憧れと良い予覚をもって妻と二匹の犬と一匹の猫をつれて草深い武蔵野の一隅の茅葺の家に移り住む。
 ある日、彼は荒れ果てた庭の片隅で痩せ細った薔薇を見つける。「薔薇ならば花開かん」というゲエテの詩句を思い出した彼は、生い茂った木々の枝を切り、その薔薇に日の光を当ててやる。新秋も近くなった頃になると、彼は田舎の風物に魅せられ、様々に物思いに耽っている。そしてある日、前に手入れした薔薇が一輪だけ畸形ながら咲いているのを発見する。
 連日雨が降り続くようになってきた初秋、猫は家中に蛙を殺して持ち込むようになり、隣家の子供は汚い足であがりこみ、犬は隣家の鶏を殺して、隣家の老細君には犬を繋げておけと言われてしまう。さらにある夜、酔っ払いが家の前を通り掛かって、犬を繋げと言い掛かりをつけてくる。その夜は酔っ払いの息子が割って入って事なきを得たが、「今に見ろ。村の者を集めてあの犬を打殺してやらあ!」という酔っ払いの捨て台詞に、彼は「俺の犬は殺される」という不安を感じる。そしていつ止むとも分らない物憂い雨に希望を失っていく。
 雨の晴れた夜、彼は犬を連れて月を見に行く。口笛が聞こえたと思うと、そこには自分そっくりの人影があり村の者は知らないはずの犬の名を呼んでいる。犬は影の方へ駆け出し、影は姿を消してしまう。彼は家で物がなくなること、寝床に出る蛾、時計の音や渠のせせらぎに眠れなくなり、幻聴や幻視に悩まされるようになり、やがては自信も失っていく。
 ある夜、彼は妻を起こして便所に行くときに、珍しい月を見ていると、王禅寺という山寺の犬が現れる。それは一週間も十日も前に屠殺された狂犬だった。
 雨が止んだ朝、あの薔薇がところどころに咲いていた。食卓で彼の心は平和であった。しかし、薔薇を全部摘んできた妻を彼はまた叱ってしまう。その薔薇を見てみると全て細微な虫の付いた病める薔薇であった。天啓なのか予言なのか、彼は「おお、薔薇、汝病めり!」という自分の口から出る声を聞くのであった。



佐藤春夫









5 空間

○空間

・田舎 … 夫婦が越してきた田舎。
〈広い武蔵野が既に南端になって尽きるところ、それが漸くに山国の地勢に入ろうとする変化――言わば山国からのかすかな余情を湛えたエピロオグであり、やがて大きな野原への波打つプロロオグででもあるこれ等の小さな丘は、目のとどくかぎり、此処にも其処にも起伏して、それが形造るつまらぬ風景の間を縫うて、一筋の平坦な街道が東から西へ、また別の街道が北から南へ通じているあたりに、その道に沿うて一つの草深い農村があり、幾つかの卑下った草屋根があった。それはTとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣りにして、譬えば三つの劇しい旋風の境目に出来た真空のように、世紀から置きっ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押流されて、しょんぼりと置かれているのであった〉
(『田園の憂鬱』(新潮文庫)、六頁二行目‐九行目)
 →モデルは大正五年春夫が女優川路歌子と実際に暮らしていた神奈川県都筑郡中里村。




・お寺  … 夫婦が家に移る前に間借りしていた寺。妻は寺での生活を嫌っていた。





・その家 … 夫婦が住み始める萱葺の田舎家。彼はこの家での田舎暮らしに憧れや期待を抱いていたが、犬を繋げと言う隣家の老細君や酔っ払い、勝手に家を出入りする子供、東京の話を聞きたがる隣家の老婆たちに悩まされ、やがて幻聴や幻視に襲われるようになっていく。

〈入口の左手には大きな柿の木があった。そうして奥の方にもあった。それらの樹の自由自在にうねり曲った太い枝は、見上げた者の目に、「私は永い間ここに立っている。もう実を結ぶことも少なくなった」とその身の上を告げているのであった。その老いた幹には、大きな枝の脇の下に寄生樹が生えていた。その樹に対して右手には、その屋敷とそれの地つづきである桐畑とを区限って細い溝があった。何の水であろう、水が涸れて細く――その細い溝の一部分を尚細く流れて男帯よりももっと細く、水はちょろちょろ喘ぎ喘ぎに通うていた。じめじめとした場所を、一面に空色の鼻の月草が生え茂っていた〉           
(『田園の憂鬱』(新潮文庫)、一二頁四行目‐一〇行目)

〈「いい家のような予覚がある」〉                (同、五頁一三行目)

〈「ねえ、いいじゃないか、入口の気持ちが」
彼はこの家の周囲から閑居とか隠棲とかいう心持に相応した或る情趣を、幾つか拾い出し得てから、妻にむかってこう言った〉               (同、一三頁一一‐一三行目)





・丘  … 彼には「フェアリイ・ランド」のように思われた。雨が降り続き、近所の人々に対する不安に悩まされる彼にとって唯一の安らぎの場となる。

〈とにかく、この丘が彼の目をひいた。そうして彼はこの丘を非常に好きになっていた。長い陰気なこのごろの雨の日の毎日毎日に、彼の沈んだ心の窗である彼の瞳を、人生の憂悶からそむけて外側の方へ向ける度毎に、彼の瞳に映って来るのはその丘であった。
 その丘は、わけても、彼の庭の樹樹の枝と葉とが形作ったあの穹窿形の額縁を通して見る時に、自ずと一つの別天地のような趣があった。ちょうどいいくらいに程遠くで、そうして現実よりは夢幻的で、夢幻よりは現実的で、その上雨の濃淡によって、或る時には擦りガラスを透して見るようにほのかであった〉      (同、六〇頁一二行目‐六一頁三行目)
  
  〈彼にはあのフェアリイ・ランドの丘以外には、世界に何も――自分自身でさえも無かったのだから〉                                     (同、六八頁四‐五行目)






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