『田園の憂鬱』論 第四章 『ファウスト』と「彼」②


第四章 『ファウスト』と「彼」  




第二節 『ファウスト』と「彼」の悲劇


『ファウスト』全体において貫かれるのは、あるときは肉体的快楽に、あるときは美に取り憑かれ、どうしてもその欲望を追い求めてしまうために愛するものを傷つけ失う人間の悲劇的な性質である。第二部でファウストは美を求めて古代ギリシアの世界へ旅立ち、女神ヘーレナの美に魅せられて恋に落ちた末、結ばれて息子を授かるが、この息子オイフォーリオンもその悲劇的性質を継承する存在として描かれる[i]
詩の象徴でもあるオイフォーリオンは自由、戦い、勝利への強い向上心を持ち、高みを目指して崖から飛び立ち、墜落死する。そしてこの後、ヘーレナは死んだ息子の「この暗い國にわたしを一人で置かないで下さい」[ii]という声を聞き、ファウストの前から姿を消してしまうことになる。オイフォーリオンは自らの自由や向上心に取り憑かれた末、仲睦まじく田園に暮らしていた親子三人の生活を崩壊させてしまったのである。
ヘーレナとオイフォーリオンとの田園生活においてファウストは「大事な息子が己達を臺なしにしないやうに、餘り思ひ切つた事をしないでくれ」[iii]と言い、家族の生活を守ろうとしているが、自らの向上心を受け継ぐ息子によってそれは破局を迎える。ヘーレナは消える間際に「美と福とが一しよになつてはゐないと云ふ古い諺を、殘念ながら此身に思ひ合せます」[iv]と言うが、これはファウストが取り憑かれたヘーレナという美を手に入れながら幸福に生活するということは元来不可能であることを告げる言葉であり、こうした美と幸福な生活の相容れなさは『田園の憂鬱』で「彼」が「芸術の世界」に取り憑かれ、生活に生きられず、妻に辛くあたってしまう要因となっているところのものである。








自分の愛する者や生活を大切にしようと試みるがやがて挫折する田舎(田園)という舞台設定、第二部においてファウストが求める美が過去の人工美である古代ギリシア世界の美であるということなど、いくつかの要素において『ファウスト』と『田園の憂鬱』は響き合っている。中でも、オイフォーリオンにとっての自由や戦い、ファウストにとってのグレートヘンの肉体やヘーレナの古代ギリシア的な美、それらに取り憑かれて生活を疎かにし愛する者を不幸に追いやる悲劇的性質を持つ主人公の姿は、「彼」が「芸術の世界」に必要な「神秘」を求めて妻を傷つけ、生活を疎かにしている姿と大きく重なるところであり、「彼」の苦悩や憂鬱は『ファウスト』におけるそれと同種のものであると言える。「彼」は『ファウスト』の一節を読み、ファウストが欲望を抑えられず、必然的に愛する者を傷つけてしまうという悲劇性に共鳴し、自分もその悲劇を招きつつあることを感じとっているのである。また、「彼」も第一部のファウストのように妻を傷つけたいわけではなく、しかし欲望に逆らえない人間の性質として不可避的に生活の中に神秘を求め続け、妻を傷つけてしまっているのである。


























[i] 森林太郎訳ではヘーレナは「ヘレネ」、オイフォーリオンは「エウフオリオン」(「童子」とも)と表記される。
[ii] ゲーテ、森林太郎訳『フアウスト 第二部』岩波文庫(岩波書店、一九二八・九)。初出はギヨオテ(ゲーテ)、森林太郎訳『フアウスト 第二部』(富山房、一九一三・三)。
[iii] ゲーテ、森林太郎訳『フアウスト 第二部』岩波文庫(前掲書)。
[iv] ゲーテ、森林太郎訳『フアウスト 第二部』岩波文庫(前掲書)。


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