『田園の憂鬱』論 第一章 はじめに


第一章 はじめに


佐藤春夫は一九一三年に慶應義塾大学を退学し、翌年一二月から新劇女優の川路歌子と同棲を始めた。『田園の憂鬱』は、佐藤が歌子と一九一六年五月に神奈川県都筑郡中里村へ移り、同村字中鉄(現・横浜市緑区中鉄)に七月から一二月まで暮らした生活を回顧して書いた作品である。作者自身「いつまでも二つの名を負はされたこの一篇は、いつまでも不完全でつぎはぎであるらしい」[i]と語ったように、この作品は一九一九年六月に最終稿「田園の憂鬱或は病める薔薇」(『改作田園の憂鬱』)が発表されるまで、いくつかの稿の結合と膨大な表現や誤字の修正の過程を経て完成に至った作品である。本論文では、最終稿および決定稿である「田園の憂鬱或は病める薔薇」を『田園の憂鬱』と表記し、「*」[ii]で区切られた二十の章をそれぞれ一章、二章というように呼称し、論じていくことにする。


田園の憂鬱



現在に至るまで『田園の憂鬱』研究の主要な論点となってきたのは主人公「彼」の憂鬱についてであった。「彼」は都会の喧騒から「深い眠」を求めて田舎へ移り、何ごとにも手がつかぬまま田園の中でさまざまなものを見、感じ、やがて幻聴や幻影、ドッペルゲンガー、犬の幽霊といった霊的な「憂鬱の世界」に身を浸し、ついには「おお、薔薇、汝病めり!」と口走り、〈病み〉にまで至ってしまう。保田与重郎氏が作者をあくまで「詩人」としてこの作品を「唯美文藝」あるいは「我國の文學の歴史に、最初の自意識の文學」と評したり[iii]、井村君江氏が「画家の眼と詩人の心を通して描かれた一種の散文詩」と述べたりしているのは[iv]、田園空間がこのような霊的・幻想的な空間として作品の中核に置かれ、その世界に属する霊的なものは芸術家の素養を持つ「彼」にしか感知できないものとして描かれているためである。幻聴・幻影を含む田園の風物は「彼」の憂鬱を反映するものとして捉えられ、しかも「彼」がそれに心動かされつつ、「馬鹿な、俺はいい気持に詩人のやうに泣けて居る。花にか? 自分の空想にか?」「これあ、俺はひどいヒポコンデリヤだわい」(八章)というような反省をも行なっているため、『田園の憂鬱』は詩人の自意識を厳しく見つめた文学と捉えられたり、憂鬱の変遷の物語として研究がなされたりしてきたのである。



しかし、そこには不足している視点があるのではないか。
高橋世織氏はこの作品に「主人公と他者とが、ほとんど対話(ダイアローグ)らしい対話の成立する場のない」[v]ことを指摘したが、むしろその他者との対話、具体的に言えば「彼」にとって最も大きな他者であるはずの妻との対話の少なさや食い違いこそが「彼」の孤独を強調し、「彼」の憂鬱を加速させているのではないだろうか。たとえば、もし「彼」が犬と猫だけを連れて田舎に移っていたなら、この作品の憂鬱はここまで深化しなかったはずである。
「彼」は珍しく妻と打ち解けた夜「俺には優しい感情がないのではない。俺はただそれを言ひ現すのが恥しいのだ」(一章)と言い訳のように漏らし、薔薇を摘んできた妻を叱った後には「妻がだんだん可哀想になつて居る」(二十章)という。「彼」は自らの妻への酷な言動に自省的であり、後悔すらしているのである。霊的な世界の深みへはまり込んでいきながら、一方で「彼」は現実の妻の存在をかなり意識しているのである。妻は「彼」の幻聴・幻影を感知することができないため、「彼」と妻が理解し合って生活することは絶対的に不可能である。しかし、「彼」はその不可能性をも認識しているのではないか。そして、そうした妻との関係性が「彼」の憂鬱と大きく関わっているのではないだろうか。


本文では、『田園の憂鬱』において「彼」が妻をどう思い、妻とどうなっていくことを望んだのかということを明らかにしていきたい。

















 注
[i] 『改作田園の憂鬱』(一九一九・六)あとがき「改作田園の憂鬱の後に」より引用。二つの名とは、「田園の憂鬱」と「病める薔薇」のことである。
[ii] ここでは省略したが、『田園の憂鬱』本文中では次のような文字列で区切られている。
           *   *   *
             *   *
[iii] 保田与重郎「近代文学と小説」(保田与重郎『佐藤春夫』、弘文堂書房、一九四〇・一一)。
[iv] 井村君江「佐藤春夫の憂鬱」(三好行雄・竹盛天雄編『近代文学4 大正文学の諸相』有斐閣社双書、有斐閣、一九七七・九)。
[v] 高橋世織「『田園の憂鬱』論」(「日本近代文学」第29集、日本近代文学会、一九八二・一〇)。





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