「田園の憂鬱」についての基本情報


はじめに

田園の憂鬱

 1 作者


 佐藤春夫〔一八九二年(明治二五年)- 一九六四年(昭和三九年)〕 
 和歌山県東牟婁郡新宮町の医者の家に生まれる。明治三七年、県立新宮中学校入学。将来の志望を問われ、「文学者たらん」と答えたと言われる。第五学年の夏休み、町内で催された文芸講演会の席上で、生田長江、与謝野寛、石井柏亭を知り、談話を試みたために無期停学の処分を受ける。明治四三年三月、中学卒業後上京し、生田長江に師事して、与謝野寛の新詩社に入り、終生の友となる堀口大学と知り合う。九月、永井荷風の教えを受けるために慶応大学予科文学部に入学し、本格的な文学活動を始め、短歌、詩、評論などを『スバル』『三田文学』などに発表。また大正七年、処女創作集『病める薔薇』を刊行し、清新なロマンチシズムあふれる繊細な作風により新進作家としての地位を確立した。生涯にわたり筆力は衰えることなく、詩、小説、評論、随筆、東西詩文の翻訳、創作童話など多方面に才筆を揮った。代表作として「病める薔薇」を改稿した「田園の憂鬱」、その姉妹篇「都会の憂鬱」、「美しい町」「女誡扇奇譚」「掬水譚」「昌子曼荼羅」などがあり、詩集に『殉情詩集』、翻訳詩集に『車塵集』、評論随筆集に『退屈読本』などがある。昭和三九年、朝日放送の「一週間自叙伝」というラジオ番組の録音中に心筋梗塞を起こし、そのまま死去した。








2 書誌

初出 『黒潮』(一九一七〔大正六〕年五月、太陽通信社)に冒頭以下五節四〇枚が「病める薔薇の題で発表。その後『中外』(一九一八〔大正七〕年九月、中外社)に「田園の憂鬱」の題名で繋いだ。
初刊 『病める薔薇』(一九一八〔大正七〕年一一月、天佑社)に「病める薔薇、或は田園の憂鬱」として収録。
定本 『改作田園の憂鬱或は病める薔薇』一九一九(大正八)六月、 新潮社
収録 『田園の憂鬱』(岩波文庫)、一九五一(昭和二六)年七月、岩波書店
   『田園の憂鬱』(新潮文庫)、一九五一(昭和二六)年八月、新潮社
    『佐藤春夫集』(現代日本文學大系)一九六九(昭和四四)年六月、筑摩書房
    『定本佐藤春夫全集 第三巻』一九九八(平成一〇)年四月、臨川書店


※『黒潮(こくちょう)
 総合雑誌。大正五・一一~七・五.全一九冊。編集発起人はじめ県新、のち鎌田実。太陽通信社発行。「発刊の辞」の中に「『黒潮』は世界の文明を日本に運ぶ水路にして、日本の正義を大陸に送る潮流也。『黒潮』は高明なる心と、公正なる筆を以て政治問題の趨向を語り、文学に、芸術に、科学に、宗教に、豊富なる知識を輸し、清新なる趣味を伝へ、国家と同法の発展と向上に資せんと欲す」という言葉が見える。大正デモクラシーの風潮と東洋に対する日本の利権を確立しようとする帝国主義の風潮を同時にはらみつつ展開。文芸の方面では時局のにおいは極めて少なく、明治以来の自然主義作家、大正期の白樺派、耽美派、新現実派、新早稲田派、女流作家などがほとんど動員されている。
(『日本近代文学大事典 第五巻』一〇七‐一〇八頁、紅野敏郎執筆 参照)


※『中外(ちゅうがい)
 総合雑誌。大正六・一〇~八・四.大正一〇・六(復刊)~八.前期一九冊、復刻後二冊。中外社発行。特別社員の中に生田長江がおり、佐藤春夫ら新人の発掘紹介に努めた。創刊号には「軍国主義の興廃と帝国の将来」を特集。「中外の大勢」欄には、安倍磯雄、北昤吉、若槻礼二郎、海老名弾正などが執筆している。他に久津見蕨村が「軍国主義概観」を寄せ、一一月号の表紙には「本誌の使命」として「東西両球の集萃、時代思潮の先駆、国民輿論の指導」を掲げた。大正六年一二月、長江門下であった佐藤春夫が穴埋めに「ある女の幻想」を発表。七年五月、長江は「文壇に推奨したい人々」で春夫を挙げ、春夫に「天才」があるとした。
(『日本近代文学大事典 第五巻』二六六頁、山敷和男執筆 参照










3 執筆背景

・岩波文庫版あとがき(昭和二十六年六月上旬  東京にて 佐藤春夫しるす)
  「その前々年(?)の晩春から晩秋までの半年ほどをそこに居住した神奈川県都筑郡の一寒村(現在は横浜市港北区の一隅)の生活の回想を記したものである。東洋古来の伝統的主題となったところのものを近代欧洲文学の手法で表現してみたいという試みによって書かれたこの田園雑記、なま若い隠遁者の手記は僥倖にも文壇の珍重するところとなっていわゆる出世作というものになった」
(『田園の憂鬱』(岩波文庫)、一九五一(昭和二六)年七月、岩波書店、一二五頁)


佐藤は大正二年に慶應義塾大学を退学し、翌年一二月新劇女優川路歌子(芸名)と同棲を始める。このころ春夫は油絵に親しみ、四年以後三年間連続して二科会に二点ずつ入選した。五年五月神奈川県都筑郡中里村に転じ、七月同村字中鉄(現・横浜市緑区中鉄)に移り、一二月まで住んだ。『田園の憂鬱』はこの時期の恋人との生活を回顧し、大正六年に書いた作品である。






・『うぬぼれかがみ』佐藤春夫
  「僕はその当時、簡古で今でいふドライな金石文か法律文書か何かのやうな、今日自分の書く文章とは全く対蹠的な文体を求めてゐたのである。(中略)その袋小路の中で僕の見たものが武者小路の文体であった。ぼくの周囲ではみな武者小路の文章を笑ってゐるなかで、僕はここにこそ新文章があるのだと、目をひらいた。さうして苦しい実験を打ち切って、武者小路のスタイルで自分のものを探してみようといふ気になり、これなら何とか書けさうなと思ひはじめた。
   そこで家をたたんで妻と犬や猫などとともに田園に引き籠る決意をした。僕の家からの支度金でこしらへてゐた妻の衣服は順々にのこらず質屋の蔵に納めつくした末、たぶん母の説得のおかげであつたたらう。東京の近郊の土地に家を一軒建つだけの金を父から送られた。(中略)これが僕の背水の陣である。さうして自分で母に酬いる誓ひを立てるそれだけの自信はあつたのである(中略)
   かういふ背水の陣中にゐた少年は、決して自ら芸術家を以て居たわけでななかつた。ただ先天的な芸術家の素質を抱いて、自分ではむしろ隠遁者のやうな気でゐたのだからをかしい。」
(『定本佐藤春夫全集 第26巻』、臨川書店、一九九頁上段四行目‐下段二四行目)


  「かういふ生活が滑稽な隠者気取りの少年の芸術的素質を培つておもむろに芸術を教へ芸術家に育てて行った。
   思ふに『田園の憂鬱』は消極的な少年生活人であつた芸術家の蛹が成虫になるための、言はば奇異な芸術修行の内面的風景図であつて、一種の芸術小説ではあらうとも、決して芸術家を描いた小説ではない。その点は混同してはならない。何となれば彼はまだ芸術家ではなかつたのだから、そこに芸術家が棲んでゐないのは当然なのである」            (同、二〇〇頁上段二一行目‐下段四行目)


  「『田園の憂鬱』が出た当時、藤森成吉氏が田園などは少しもかけてゐないと非難したことがあつた。僕が田園の農民を描こうとしたのではなく、田園に於けるわが憂鬱を書こうとしたのだとはお気づきでなかつたらしい」
(同、二一八頁一一‐一四行目)











 佐藤は当時自分の散文におけるスタイルを確立しようとしていた。田園生活はそのスタイルを確立し、「文学者たらん」という志を立てるためのものであった。この生活は「背水の陣」ではあったが、芸術家志望者から芸術家になる自信が、佐藤にはあったのである。そして、この作品で佐藤が表現したかったものは田園の農民や風物ではなく自分自身の憂鬱であったのである。


人気ブログランキング
https://blog.with2.net/link/?2037559

にほんブログ村
https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=11053021

私の趣味ブログ

コメント