「田園の憂鬱」の概要 2


6 登場人物

彼    … 老人のような理知と、青年らしい感情と、子供ほどの意志とをもった青年。芸術上の仕事には深い自信があるが、都会の重圧に苦しみ、妻を伴って田舎で暮らし始める。一旦愛すると程度を忘れて溺愛せずにはいられない性質で犬と猫を可愛がっている。田舎暮らしに期待を持っていたが、しだいに幻聴や幻影に悩まされるようになる。
 
彼の妻  … 自分に対して気難しい夫に思い悩み、仕事を放擲して田舎へやってきた夫に疑問を感じていた。かつては女優であった。

フラテ  … 夫婦の家で飼われている犬。やんちゃな性格。村の人々からは疎まれている。(名前は聖フランシスの伝記に由来)

レオ   … 夫婦の家で飼われている犬。大人しい性格。(名前は聖フランシスの伝記に由来)

青    … 夫婦の家で飼われている猫。雨の日は蛙を殺して家内に持ち込む。

お絹   … 彼らを家へ案内した太った女性。空返事をされているのに家の由来について話し続ける。自分の興味のあることなら他人も興味を持って当然と考えている単純な人。彼の家へやってきて、身の上話をしては泣く。

梵妻   … 寺に住む女。妻には嫌われていた。

老主人(隠居)… 豪家N家の老主人。若い妾と暮らすために「その家」を建てたが、妾 には逃げられる。

若い妾  … 産婆でもあり、村にとって役に立つ存在であることもあって老主人の妾に選ばれた。半年後、都会から連れてきた「番頭さん」と姿を消す。

番頭さん … 若い妾の知り合いで村を訪れた後、妾と姿を消す。

小学校長 … 老主人の養子で、「その家」の今の持ち主。

女学生  … Y市の師範学校の生徒で、村の唯一の女学生。夏の終りに彼の妻と友達になった。新春の頃には村を去ってしまう。

老細君  … 大尽の女主人。自分の家の鶏が夫婦の犬に食べられてしまったことから、不機嫌になり、繋いでおいてもらいたいと言ってくる。日頃から自分へ尊敬を払わない彼を不愉快に思っていた。

女の子  … 老細君とは別の隣家の小汚い二人の女の子。一人は赤子を背負っている。十三歳になる一番上の子はお桑といい、彼の妻に世話話を聞かせる。遊び場所がないので彼の家に汚い足で乗り込んでくる。

老婆   … 夫婦に風呂を貸している女の子達の家の老婆。風呂釜の下を燃やしながら、東京の話を聞きたがる。

黒い男  … 酔って彼の家の前を通りかかった。可笑しいほど犬を恐れ、おかしいほど一人で威張って、犬を繋がなければ通れないと言う。

提灯の男 … 黒い男の息子。男が酔っ払い出会ったことを彼に告げ、謝罪する。

狂犬   … ある夜、彼の家の軒先に現れた彼にしか見えない白い犬。彼には王禅寺という山寺の犬に見えたが、その犬は既に狂犬として屠殺されていた。






9論点

〇研究史

 『田園の憂鬱』は作中人物「彼」の憂鬱解剖がその主要な論点となっている。

一九六四(昭和三九)年前後、論点となったのは中村光夫が佐藤との論争で示した大正作家の限界性の問題、佐藤の死後さまざまな意味で問われた佐藤春夫の憂鬱な心情についてである。これらは島田謹二「佐藤春夫の病める薔薇」(『明治大正文学研究』、一九五六・一〇)の改稿過程の問題及び比較文学的アプローチに端を発し、高田瑞穂「佐藤春夫」(『文学』一九六四・一一)などの耽美的位置づけの問題に集約される。

『佐藤春夫全集』(講談社、一九六六‐一九七〇)の完結同時期には、山敷和男「『田園の憂鬱』の文体」(『日本近代文学』、一九六九・五)など文体から「彼」の憂鬱を探る新たな試みもなされた。

昭和五〇年代になると、中村三代司「『田園の憂鬱』への階梯」(『国語と国文学』、一九八一・四)で作者の表現意識をその転移の過程でとらえようとし、高橋世織「『田園の憂鬱』論」(『日本近代文学』、一九八二・一〇)は大正という時代性と光の変化から作品を読み取ろうとした。

また磯田光一は「彼」が女優と結婚するというディレンマを作品解読の枠とし、それを受けて湯浅篤志は「うつろな愛――改稿プロセスのなかの『田園の憂鬱』」(「塔影」、一九八九・三)で「彼」の憂鬱の内実を佐藤の私生活と関連させつつ、底本に至るまでの改稿過程と絡ませて論じた。

林広規は「田園の憂鬱」(『日本の近代小説Ⅰ』、一九八六)で作品の前半と後半の落差を「彼」の心理分析を通して考察した。また佐久間保明は「『田園の憂鬱』の構成」(『武蔵野美術大学研究紀要』、一九八九・三)で作品全体の変化する物象と主人公の憂鬱が巧みに組み合わされた堅固な構造であるとし、長田光展は「心的変容の寓話――『田園の憂鬱』論」(『近代日本文学論』、一九八九・一一)で深層心理的な手法を用いて作品を過度に意識された心が無意識部の生命と創造性とを回復して癒されていく心の組成の過程と読み取った。




・保田与重郎
  「田園の風景に、抒情のよろこびだけや、低徊趣味だけを描いてゐるわけではない。何の結論ももたないで、これほど執拗に、自己を解析しつくした作は模倣時代の我が文壇では比類がない、たゞその美しい文章のしらべが、人を眩惑するばかりに、描いてゐる詩人は、かえつていつもある限界の危機線上を彷徨している。(中略)
田園の憂鬱は作者のいはゞ試みにみちた處女作であろう。しかしそれは試みや示威的なものに終らなかつた。さうしてこの絢爛とした文字の亂舞の中で、作者は、我國の文学の歴史に、最初の自意識の文學を描いたのである」
(『佐藤春夫』、保田与重郎、一九四〇・一一、弘文堂書房〔『佐藤春夫』(近代作家研究叢書123)、一九九三・一、日本図書センター〕九二頁五行目‐九四頁九行目)


→ 保田氏は佐藤をあくまで詩人として見ようとする。そしてなおかつ『田園の憂鬱』を「自意識の文学」であるとする。




・高橋世織
  「『田園』での「ランプ」生活は、近代的な人工光線からの逃避であり、晩遊であり、前近代的な〈闇〉に囲繞された〈眠り〉という識閾下の世界への惑溺であった。そしてそこには当然、〈昼〉の意識と〈夜〉の意識の葛藤、相剋が絶えず演ぜられる。近代の一切を集約する〈都会〉なるものへの上昇志向、成功志向のエトスに駆り立てられる春夫の一面は、自己の才能の開花、芸術家としての自己実現への意志という形で、絶えず意識の表層を持続的に支配していた。他方、断続的に流れている深層で形成される無意識の世界は、前者に拮抗する形でヴィジョンをはぐくみ、幻視やドッペルゲンガーを巻き込んで夢像を樹立展開したのだ」
(「『田園の憂鬱』論」、高橋世織、一九八二・一〇〔『佐藤春夫と室生犀星』、佐久間保明・大橋毅彦、一九九二・一一、有精堂、七四頁上段二二行目‐下段七行目〕)


→ 高橋氏は作品の中の光量の変化に注目して論を展開している。「彼」が電燈の普及で不夜城となった大正の都会から、「深い眠り」を求めて洋燈の光で生活する田舎へ移ってきたこと、そして、前半が昼のエピソードであるのに対して後半が夜のエピソードばかりになっていることから、「彼」の意識が、芸術家としての自己実現への意志という表層レベルの意識から、幻視やドッペルゲンガーといった自己の識閾下の世界、〈夜〉の意識、〈闇〉の意識へと深化していっていると述べている。



・河村政敏
  「実は主人公は、この田園に初めから一人で住んでいたのだ。ポオの詩のように。素朴な自然などどこにもない。犬や猫は無論のこと、妻の存在でさえその心情の影でしかなかった。(中略)この主人公は田園で自然を見ていたのではない。自然に囲まれながら自分を見ていたのである。妻と語りながらも自分の心を覗いていたのである。その自分は「先天的な芸術家の素質」(『うぬぼれかがみ』)を持ちながら、それを試そうとする気力さえ失っている。自然が色褪せてゆくのは当然のことだ。自然が病気に感染したのである」
(「田園の憂鬱」、河村政敏〔『国文学 解釈と鑑賞』(第六七巻三号)、二〇〇二・三、至文堂、一〇〇頁上段一一行目‐下段七行目〕)


→ 河村氏は『田園の憂鬱』における主人公の憂鬱を、佐藤自身が『うぬぼれかがみ』で「先天的な芸術家の素質を抱いて」「田園におけるわが憂鬱を書かうとした」と述べるとおり、人や自然といった外的な要因に起因する憂鬱ではなく、芸術家の個人的な憂鬱であると述べている。確かに田園の風物は「彼」の心情を象徴するようなものであり、妻との会話描写の少なさや、田舎暮らしに対する気持ちの食い違い、妻が都会を恋しがっているという強烈な思い込みなどからは「彼」の心が妻から離れていることがうかがえる。




・菅野昭正
  「『田園の憂鬱』において、薔薇が《存在》、《生存》を喚起する象徴として活用されていることは、前に見たとおりである。また、そこに象徴の中心が置かれていることも。《存在》、《生存》が活力を奪われて逼塞している状態を仄めかす第一、さらには奇跡的に花を咲かせて、《存在》、《生存》が正気を何とか蘇らせたことが暗示され、そして「彼」が喚起する状態を示唆する第二と同じく、この第三においても、薔薇は《存在》、《生存》と固く結びついている。
   それに「病めり」と診断する語が加えられているのだから、この薔薇の象徴が隠喩として何を表示しようとしているか、それはもう誰にでもすぐに承認できるくらい明々白々である。病める《存在》、病める《生存》のもっと奥深いところへ飛びこんでゆく。そうして、無残に蝕まれた薔薇の痛ましいありさまを眺めるうちに、薔薇の惨状にたいする憂慮のほうはいつしか薄れて、「彼」自身の《存在》の病い、《生存》の病いについての不安が、「彼」の意識をしだいに深く蝕むようになっていく」
(『憂鬱の文学史』、管野昭正、二〇〇九・二、新潮社、一八九頁八行目‐一九〇頁一行目)


→ 菅野氏は「薔薇」を「彼」の《存在》《生存》の象徴であると考えた。つまり痩せた薔薇→一輪だけ花を咲かせた薔薇→ところどころに咲いていたが蝕まれていた(「病める薔薇」だった)薔薇という変遷は、「彼」の《存在》《生存》のありさまをそのまま示しており、最後には「彼」の《存在》《生存》は拠り所のない不安に落ち込むということになる。菅野氏は『田園の憂鬱』を存在論的な物語であると考えたのである。











10主題・研究テーマ

○「憂鬱」と妻との関係

 先行研究は「彼」と妻とのすれ違い、視覚・聴覚(幻視・幻聴)を共有しない「妻」という存在に注目してこなかったが、今回は「彼」と妻の関係性に注目して考察していきたい。

   〈あれほど深い自信のあるらしい芸術上の仕事などは忘れて、放擲して、本当にこの田舎で一生を朽ちさせるつもりであろうか。この人はまあなんという不思議な夢を見たがるのであろう〉                    (『田園の憂鬱』(新潮文庫)、一〇頁六‐八行目)

〈何故こうまで私には気難しいのであろう。(中略)そうして私には辛くあたる……。今のままでは、さぞかし当人も苦しいであろうが、第一そばにいるものがたまらない。返事が気に入らないといっては転ぶほど突きとばされたり、打たれたり、何が気に入らないのか二日も三日も一言も口を利こうとはしなかったり……。あの人はきっと自分の結婚を悔いているのだ〉                                   (同、一〇頁九‐一六行目)

これらの箇所から妻は田舎に移り住んだものの、「芸術上の仕事」も田舎暮らしらしく畑仕事もしようとしない夫に不満を持っていることが分かる。また、自分に対して気難しい夫は別の女に思いを寄せていて自分を好いてはいないのではないかと心配しているということが分かる。妻は夫に「親切に、優しく調子よく」(本文)接してほしい、田舎で暮らすならば明るく精力的に生活してほしいと思っていると考えられる。


   〈「俺には優しい感情がないのではない。ただそれを言い現すのが恥しいのだ。俺はそういう性分に生れついたのだ」〉                         (同、一一頁七‐八行目)

   〈彼は、しかし、そんなことを言っているうちにも、妻がだんだん可哀想になっている。そうして自分で自分の我儘に気がついていた。妻の人差指には、薔薇の刺で突いたのであろう、血が吹滲んでいる。それが彼の目についた。しかし、そんな心持を妻に言い現す言葉が、彼の性質として、彼の口からは出て来なかった〉    (同、一〇九頁一七‐一〇九頁一行目)

 「彼」は妻を厳しく非難した後、妻が可哀想になり、自省して悔い、さらに妻の心遣いを汲み取ろうとさえしているが、「彼」はそれを言い表すことが性質上できない。「彼」は妻を疎んじている訳ではなく、性質上、自分の伝えたいことを妻に伝えることができないということに悩んでいるのではないだろうか。「彼」の憂鬱は、河村氏の言うような芸術家の個人的、内面的な要因からだけでなく、対人的、外面的な要因、つまり理解されない夫婦間の食い違いからも来ているのではないだろうか。彼の幻視は妻には見えず、幻聴も妻には聞こえない。彼らに対話は成り立たない。「彼」の憂鬱はこの夫婦のディスコミュニケーションによってより深化しているのではないだろうか。

例えば、妻との食い違い、心の距離が離れることによって「彼」の憂鬱が喚起されている箇所として、妻が東京へ思いをはせる(東京へ行っている)場面で次のような箇所がある。

   〈そのとき炎の上に濺がれていた彼の瞳に、ふと何の関聯もなしに、妻の後ろ姿が、極く小さく――あのフェアリーほど小さく見えるような気がした。その燃える火のなかにいる彼の妻は、どうやら大変な人ごみのなかにいるように感ぜられる……。単なる想像ではなく、それは目さきにちらつく幻影に近い(中略)ああ活動に行っているな!と、彼には直感的にそう思えた〉                             (同、七〇頁一二‐一七行目)

   〈これらの怪異な病的現象は、毎夜一層はげしくなって行くのを彼は感じた。彼はそれ等の現象を、彼の妻から伝わって来るものだと考え始めた。汽車のひびき、電車の軋る音、活動写真の囃子。見知らぬしかし東京の何処かである街。それ等の幻影は、すべて彼の妻の都会に対する思いつめたノスタルジアが、恐らくかの女の無意識のうちに、或る妖術的な作用をもって、眠れない彼の眼や耳に形となり声となって現れるのではなかろうか、彼はそう仮想してみた〉                          (同、八七頁一三‐一七行目)





病める薔薇








◎今後の展望

 芸術家を志す「彼」は、その鋭敏さゆえに、様々な幻視、幻聴を捉えることができた。しかし妻にはそれは捉えられず、田舎での生活も「一生を朽ちさせる」「不思議な夢」としか思われなかった。「彼」は妻に辛くあたってしまう一方で、自分の身勝手を知り、悔いていた。「彼」は妻に芸術家を志すものとしての生き方、感覚、自分の世界を理解してほしかったのではないだろうか。理解してほしいのに理解されないという家族を持つ芸術家ならではの矛盾に、「憂鬱」だったのではないだろうか。「彼」は夫として適さない自分に対して自省的であった。この作品には、美を追い求めることで家族や他者を傷つけてしまう、という文学者・芸術家の矛盾した家族への感情が絡んでいると思う。今後は作者自身の妻、家族、そして時代背景や他の作家の状況を調べ、もう一度本文に帰って研究を進めていきたい。








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