『田園の憂鬱』論 第二章 夫婦の生活への思考②


第二節 「彼」の生活への思考



「彼」は本論文第一章で触れた薔薇を摘んでしまった妻を叱るときの描写からも分かるように、理不尽に妻を責め立てる一方、その言動に自省的でもあり、心から妻を責めたいわけではなく、むしろ柔和に接したいと望んでいることがうかがえる。



皿を手に持つて居て、皿の事は考へないで、ぼんやり外のことを考へる。《中略》生活を愛するといふことは、ほんとに楽しく生きるといふことは、そんな些細な事を、日常生活を心から十分に楽しむといふ以外には無い筈ではないか………(十八章)



 これは十銭で買った西洋皿を壊した妻を「珍らしい長談議」で叱る「彼」の「小言」の一部であるが、「彼」はたとえ十銭であれ生活用品を粗末に扱った妻をまるで「生活」に集中していない(「生活」を軽んじている)とでも言うように責め続け、その末に「妻に言ふつもりであつた言葉が、いつか自分に向つての言葉に方向を変へて」いることに気づく。


つまり、ここで安価な皿を大切にするように今の生活を尊び愛することができないのは、妻ではなく「彼」自身なのである。「彼」が不用意に皿を割ってしまった妻を必要以上に責めるのは、自分が「妻」との生活を愛することも楽しむこともできず、自らの仕事(文学)で支えることもできないことをはっきりと自覚し、歯痒く思い、生活に集中して、妻と「楽しく」暮らそうと強いて意識しているからである。そのため、「彼」はそれを犯す妻の行為に対して過剰に反応してしまうのである。すなわち、ここで「彼」は妻を責めながら自分を責めているのである。


また、二十章において「彼」は「おお、薔薇、汝病めり!」という声とともに「お前はなぜつまらない事に腹を立てるのだ。お前は人生を玩具にして居る。怖ろしい事だ………。お前は忍耐を知らない」という声を聞いている。「彼の口で言ふのだが、彼の声ではない」らしいその声は生活に生きられない「彼」を非難している。ここでも「彼」は自らの無意識の声によって自分自身を責めているのである。
「彼」は文学への「青年らしい感情」を抱き、自らの才能も自覚しているが、「子供ほどな意志」しか持たないため、田舎へ移っても文学の仕事に手をつけられないでいる。そして、「深い眠」とはほど遠い田舎の人々や幻影・幻聴に悩まされ、時計や小川のせせらぎの音にも耐えられなくなり、やがて「遠からず死ぬのではなからうか」と予感し、自信をも失ってしまう。「彼」はその上で「老人のやうな理知」によって、それは自分が「忍耐を知らない」ためなのだと自嘲する[i]。「彼」は幻影・幻聴の世界に身を置きながらも、自分の無為な暮らしぶりを「人生を玩具に」する「怖ろしい事」とする価値観、すなわち妻と同じように生活を重んじ、そのために生きた方がよいという認識を持っているのであり、ゆえにそれができない自分を責め、妻に厳しくあたってしまってはその度に後悔しているのである。





ここまで述べてきたように、「彼」の生活への思考は複雑である。「彼」は普通の生活者として生活のために生きることの価値を認めているし、仕事(文学)をしなければとも考えている。また、妻に対して憎しみを抱いているのではなく、むしろ生活に生きられない自分を申し訳なく思い、穏やかに接したいと考えている。しかし、「彼」にはそれがどうしてもできないのである。そして、それができないから自分を責め、妻の行動に過敏になり、また妻に厳しくあたってしまうという悪循環に陥っているのである。「彼」にとって生活や妻は大切にしたいものでありながら、自身の「性分」[ii]上、疎かにせざるを得ないものなのである。






























[i] 「彼は老人のやうな理知と青年らしい感情と、それに子供ほどな意志とをもつた青年であつた」とあるのは一章、「彼」が「時計の音がやかましく耳についた」「渠のせせらぎが、彼には気になり初めた」とあるのは十六章、「自分は遠からず死ぬのではなからうか。…………それにしても知つた人もないこんな山里で、自分は今斯うして死んで行くのであらうか」とあるのは十八章である。また十八章において「彼」は「おれには天分もなければ、もう何の自信もない………」と言っている。
[ii] 一章に「俺には優しい感情がないのではない。俺はただそれを言ひ現すのが恥しいのだ。俺はさういふ性分に生れついたのだ」という「彼」の妻に対する発言がある。



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