第三章 「芸術の世界」と「憂鬱の世界」
第二節 「憂鬱の世界、呻吟の世界、霊が彷徨する世界」
しかし、「彼」が田舎の中で陥った「憂鬱の世界、呻吟の世界、霊が彷徨する世界」(十九章)は、ポーやブレイクの詩句注[i]、ダンテの巡った地獄注[ii]、ゲーテの戯曲でファウストの訪れた精霊や妖精のいる世界注[iii]、ダヌンチオの『死の勝利』に登場する蛾や犬の幽霊注[iv]、スピネロオ・スヒネリイの描いた悪魔注[v]、エル・グレコ絵画の肢体注[vi]等々、数々の過去の芸術家たちの作り上げてきたイメージによって構成される世界であった。つまり、「彼」の陥った「憂鬱の世界」は、先人の「労作」によって作り上げられた人工のイメージの集合の世界であり、『死の勝利』のような犬を見、自らの口から出たブレイクの詩句を聞く段階に至っては、人工が自然を浸食しきった、現実の〈生活〉を見ることのできない、〈神秘〉一辺倒の世界であったのである。
五章に、「彼」が薔薇を愛するのは「自然そのものから、真に清新な美と喜びとを直接に摘み取ることを知り得なかつた頃」から「芸術的因襲が非常に根深く心に根を張つて」いて、薔薇が薔薇に関する過去の「優秀な無数の詩句の一つ一つを肥料として」自分に美を感得させるためだ、という箇所がある。ここから分かるのは、「彼」が自然そのものに美を感じる以前に「ゲエテ」などの「西欧の文字」や「支那の詩人」の中に美を見出し、自然の薔薇に人工の「無数の詩句」の美を見ていたということである。「『薔薇』といふ文字そのものにさへ愛を感じた」と、薔薇に託された「芸術的因襲」のみから美を感じてすらいる「彼」は、「憂鬱の世界」に陥る以前から人工の美に傾斜していたのであり、「憂鬱の世界」はその傾斜の行きついたところであるとも言えるだろう。
そうした人工の美(神秘)の肥大化によって、「自然そのもの」の「真に清新な美と喜び」は浸食されていく。ここで言う〈自然〉とは、景物だけでなく、妻との田舎生活であり、たとえば娘を捜す村の若者たちの逞しい歩みや村祭りの太鼓の響きといった生活の現実そのものの風景の美しさをも含んだ大きな意味での〈自然〉である。「彼」はそういった自然(生活)の中に「芸術的因襲」を孕んだ人工の美(神秘)がある世界を当初「芸術の世界」として望んだのであるが、実際に田舎の生活に触れたときに感じたのは、そこに住む人々への苛立ちと絶望であった。
隣家が生活のために鶏を飼い、「彼」は聖フランシスの伝記に由来する名を負わせた犬を飼うという対比に明確であるように、田舎に住む人間はむしろ〈生活〉一辺倒の自然のみの世界に生きていたのである。隣人は鶏を殺したフラテとレオを折檻し、繋げと言い、酔漢は「村の者を集めてあの犬を打殺してやらあ!」と言う注[vii]。また、隣家の老細君は夫婦が「野良仕事をしない」という理由で「贅沢な生活でもして居る」と推察し、不愉快に思っている注[viii]。田舎の住人たちは「芸術の世界」の一要素として不可欠な人工の美(神秘)を否定し、生活のみの世界に生きることを「彼」に強要する存在として描かれているのである。
そして、「彼」は鶏の鳴き声には癇をそそり、汚い足で家へ押し入ってくる隣家の娘たちには憤慨し、風呂を借りる隣家で聞く老婆の話には叫びだしたいくらいで、家へ泣きに来るお絹の顔は見るだけで胃痛がする。つまり、村の者たちの生き方を「彼」は嫌悪しているのである。
一般の世間の人たちは、それなら一たい何を生き甲斐にして生きることが出来て居るのであるか? 彼等は唯彼等自身の、それぞれの愚かさの上に、さもしたりげに各の空虚な夢を築き上げて、それが何も無い夢であるといふ事さへも気づかない程に猛つて生きてゐるだけではなからうか――(六章)
[ii] 十九章に「ダンテは肉体をつけたままで天界と地獄をめぐつたと言ふならば………。 少くとも、少くとも俺が今立つて居る処は、死滅をそれの底にしてその方へ著るしく傾斜して居る坂道である………」という箇所がある。
[iii] 十二章、「彼」は家から見える丘に小さなフェアリイ(妖精)たちが蠢動し、仕事をしている様子を見る。そして、このフェアリイの蠢動する丘「フェアリイ・ランド」は二十章で「彼」が「おお、薔薇、汝病めり!」という声を聞いてから「一しおくつきりと浮き出」し、「又一倍彼の目を牽きつけ」はじめる。ここではエルフ(小さな妖精・精霊)の一群が登場し、合唱する場面がある『ファウスト』を挙げたが、井村君江氏は「佐藤春夫とオスカー=ワイルド―『田園の憂鬱』を中心として」(成瀬正勝編『大正文学の比較文学的研究』、明治書院、一九六八・三)において、ツルゲーネフの散文詩やアナトール=フランスの『人間悲劇』の一節を思わせると指摘している。
[iv] 『死の勝利』に主人公があてもなくランプの周囲を飛んでいる悪魔のような蛾を捕えようとするという場面があるが、この蛾のイメージは『田園の憂鬱』で「彼」が「この小さな飛ぶ虫のなかには何か悪霊が居る」(十五章)と考える何度捕えて外に投げ捨てても枕元のランプに忍び寄ってくる蛾のイメージに符合するものである。また、『田園の憂鬱』十九章で「彼」だけが見ている白い犬に類似する幽霊のような犬が『死の勝利』にも登場している。犬の幽霊の類似に関しては井村君江氏が「佐藤春夫とオスカー=ワイルド―『田園の憂鬱』を中心として」(成瀬正勝編『大正文学の比較文学的研究』、明治書院、一九六八・三)において指摘している。
[v] 十六章に「悩ましいもののすべては、画家スピネロオ・スヒネリイが描いたといふ悪魔の醜さ厭はしさ怖ろしさをもつて彼に現はれ、彼の目の前に出没して、彼を苦しめたであらう」という箇所がある。スピネロオ・スヒネリイ(Spinello di Luca Spinelli)は一四一〇年没のイタリアの画家である。
[vi] 十七章で「彼」は夢うつつに見た妻の白い手を「エル・グレコの画によくあるやうな形をした手」と言っている。エル・グレコ(El Greco)はギリシャ生まれのスペインの画家である。
[vii] 隣人に犬を繋げと言われるのは九章。酔漢の登場は十章。
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