小説 「年とる前に死にたいぜ」10

 「ほら、こんなんとか、太田君あんまり好きじゃないんじゃない?」

彼女はクローゼットに貼ってあるでかいポスターを指さした。

エレキギターを持った男がステージの上でしゃがんでいる。後ろにはバッキングバンドも映っている。男はしゃがんで何かに触れている。床に落ちている、紙幣? 花びら? 透は男が何をしているのか知らない。壁には他にもポスターが二枚貼ってあった。

「誰それ?」

透は一応聞いてみた。

「ジョー・ストラマー、って人」

「へえ、聞いたことないな」と透は温かく相槌を打ったつもりが、どうしてもそこには幼い嘲りが含まれていた。その兆しはあの日レコード屋やライブハウスに行った頃からあって、想像はできていたはずなのに。透は彼女に落胆しかけて「音楽、好きなんや」と、もう投げやりなくらいに口をもごもご動かしていた。

しかし、ここで、このタイミングで、彼女の笑いは閃いていた。それは透の眼球にいつも無条件に直流する。「まあ、音楽が好きっていうか、好きな歌が好きなだけ。太田君は音楽とか聴かへんの?」と続いた台詞が、透には普通すぎて奇怪なくらいだ。

 透は本当は全く聴かないくせに、あまり聴かないと答えた。透は音楽というのは弱い奴が話題の種に聴くものだと思っている。他人と同じ音楽を共有し、同じ感想を述べて安堵する。自分は彼らと一体なのだと思い込む。そしてそれを共有しない者との相違を明確にしてその集団の機構を強固にし、閉じ籠る。そのためにCDを買ったりダウンロードしたりするわけだ。盛り上がるとか、癒されるとか、あの人めっちゃ歌上手いとか、カンドウだとか、それは全部嘘だ。それは感動ではない。安心だ。逃げているだけだ。そんなものはいらない。弱い奴は弱いから逃げるんじゃなく、逃げるから弱いのだ。逃げる奴は自分が逃げていることさえ気付かない。そんな奴は知らない。死んだ方がいい。感じているのは一人。少数派も多数派も何もない。一人なのだ。人間が寄り掛かることのできる母体なんかどこにもないのだ。掴まり立ちでは何も見ることはできない。誰かと同じ気持ちになるなんて、それはダサい。気持ち悪い。音楽でストレスは発散されるかもしれないが、それは何だかもったいない。音楽って、カッコよさそうだけど、カッコよくはないな。だって本当にカッコいいものは自分で決めなくちゃならないから。とにかく人は上手い音楽なんかに感動したりしやしない。透は音楽なんかより、昨日のテレビとか教師やブサイクの悪口とか、そんなくだらない話題の方が好きだったのだ。

「嫌いなんやろう?」とムツミは責め立てる。

「あんまり知らんけど……」

透は彼女が一体どんな返答を求めているのかと考えながら、探り探りになっている。しかしできれば彼女に嘘はつきたくない。

「音楽なんか好きじゃなくていいねんで」

 そう言ってくるか、と透は思った。

「なんで?」

「だって、似合わへんもん」

「それって俺のこと微妙に馬鹿にしてへん?」

「してへんで。むしろめっちゃリスペクトというか、そういう人に私はなりたい、って宮沢賢治みたいやけど、でもほんまにそんな感じ。だって音楽なんて、ほんまは必要ないんやもん。必要ないものは必要ないって言った方がかっこいいに決まっとうやん?」とムツミは胡坐のままちょっと笑って、「まあそれでも、嫌われるかもしれへんのに太田君をこの部屋に連れてきた私の根性くらいは認めてほしいな。私のなけなしの勇気なんやから、それは買ってよ」と、透を照れさせた。ムツミは人の照れる姿を見るのが嫌いではない。

「買う買う。第一、俺は音楽嫌いって一言も言ってへんやろ。それに誰も自分が苦手なものを相手が好きやからって人を嫌ったりなんかせえへんと思うぞ。それにお前、自分の顔鏡で見たことある? そのレベルなら、何が好きでもそんなことは小っさいことやんか。クラスの女子なら無理かもしれんけど、男子はみんなお前の言うことならなんでも受け入れてまうし、好きになるって」

 透も負けずに本音とおべっかをごちゃ混ぜにしたようなことを、さらに冗談めかして言ってみた。精一杯だったが、彼女の冗談にはこういう乗りこなし方があるのか、と透自身感心していた。

「そのレベル? なんか私、褒められとう? それは太田君も例外ではないんもんなんかな?」

「ああ、うん。そうやな。俺もみんなと同じ。何でも、ほんまに何でも受け入れてまうやろうな。もう奴隷みたいに」

透は無闇やたらと照れながら、そして背骨で踏ん張りながら、結局だらしなく笑ってそういうことを口走っていた。

「そうなん。じゃあ飲み物でも注いでもらおっかな?」

 ムツミは首を少し横にかしげながらそう言った。

透は「はい、注ぐ注ぐ」と言って、スプライトを丁寧にグラスに注ぎ、ムツミに恭しく手渡した。

「アハハハ、なんかキモい。全然似合ってへん」

「おい、ちょっと酷くないか、さっきから。俺はそんな凶悪じゃないし野蛮でもないぞ」

 見上げると、ムツミは世にも自然に、まるでそういう生き物のようにゴクリっとスプライトを一口飲んでいた。

 多分透はムツミの繰り広げる妙な会話の術中にはまっていたし、何度か失敗したとも感じていたが、もうそれでいいと思いはじめていた。何を話そうが、どんなものが好きだろうが、大きな眼は暴力的に輝いている。透が求めるのはその輝きだけだった。彼女の嗜好も容姿も住む家も、あの力、あの圧倒的な最低さの一要因に過ぎない。それを透は思い出した。

「でもな、私が好きな音楽って、多分太田君は聴いたことない感じやと思うで。太田君が知っとう音楽が〝音楽〟っていうなら、これは音楽じゃないっていうくらい違うって思うんちゃうかなあ」

 ムツミはポスターの中の男たちを、ジョー・ストラマーを、ブルース・スプリングスティーンを、サングラスを掛けたジョーイ・ラモーンを、そうだったよねと確かめるように眺める。どれも透の知らない顔だ。

「どういうこと?」

「そのままの意味。阿久川でも高ノ江でもこの辺の町のどこに行っても聞こえへん歌が、私は好きやってこと。うん、音楽なんかじゃない。そう思うな。こんなんは家で黙って一人で聴くもんやから、今無理やり聴かしたりせえへんけど」

 透の真横には三段のカラーボックスを横倒しにして二つ重ねた棚があり、その上にCDとMDも聴ける二〇〇五年製のラジカセにレコードプレーヤーまで置いてあった。両機とも上段のカラーボックスの中に鎮座しているステレオに無理やり繋げられている。カラーボックスの残りの空間にはCDやらレコードがびっしり詰まっている。元町のあの臭くて汚らしい店で買ったのだろうか。高校生が洋楽のレコードなんか持っているのは気取っているのか、それとも空回ったコントなのか。とにかく変な部屋だ、と透は思った。ベッドの足元に小さなテレビが置かれているのだが、その下にあるのはテレビ台ではなく冷蔵庫だった。冷蔵庫にしては小さいが、それでも腰の高さくらいはある。テレビの横にはコントローラーのないプレイステーション2がDVDプレーヤー代わりに立てられている。枕元の小さな棚には少女漫画雑誌やNRUTOの三十六巻、輸入盤のCD、DVD、教科書やら文庫本やら、透の見たことのあるものとないものとが遜色なく並んでいる。彼女は空間の使い方が下手だった。勉強机もベッドも電化製品の類も、もう少し整って見える設置場所があろうが、彼女はそれより自身の生活性を重視した。使いやすく手が届きやすければ、コンセントの場所もコードの長さも気にしない。それだけ部屋は狭くなる。しかしその部屋は彼女の生活のためだけにあるがゆえ、どこにも埃は積もっておらず、全体にからりとした清涼感があった。





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