小説 「年とる前に死にたいぜ」9

第二章 ハルマゲドンタイム




     一


 ムツミは放課後家へ来るよう透に言い付けておいた。透はそれに従い、いつの間にか台風のように下校してしまっていた彼女の家を目指した。この前黒い自転車を追って行ったきりだったが、道は完璧に覚えている。柊の生垣の前に着くと、躊躇うことなくインターホンを押す。ムツミはインターホン越しには出ず、「はあい」と玄関から顔を見せた。

「今日はどこに連れていってくれるん?」

 透が皮肉のように言うと、彼女はそれを無視して「自転車、そこじゃなくてこっちに置いてくれる?」と、ぽいと捨てるようにガレージの方を親指で示した。プランターとか如雨露の置いてある暗いところへ自転車を押しながら、彼女は三宮で何をさせるでもなかったが、きっと付き添うことが自分には不可知のところで彼女の利になっていたのだろう、ということを透はもう一度考え直していた。「そこ、そこ、私の自転車の横に付けといて」という喧しい声を聞きながら、自分がこの家にいることで今度は彼女にどんな得があるのだろうと考え、その構図と自分自身を面白がった。「家の人は?」と聞くと、ムツミは「おらん」と即答して、せかせかと玄関へ招き入れた。

「――おじゃまします」と透が告げるのは、親がきちんと躾けたからだ。

「――お上がりなさい」とムツミがおどけるのは、一体なぜだか分からない。しかしそれが痛快だ。透は自然と笑っている。

 透は居間になっている和室に通され、座布団の上に座らされ、グラスと一・五リットルのスプライトとクッキーまで出された。

「こないだはありがとう。ついて来てくれて」

「今日はどこにも行かんでええんけえ?」

「うん。今日はいい。お金も厳しいんじゃない? 私はまだちょっとはあるけど、前、お金ないって」

透は苦笑する。

「お母さんは? 仕事?」

 ムツミはあからさまに何でそんなことを聞くんだという顔をして「えっと、うん、仕事仕事。あの、うち母子家庭やから、母さん普通に働いとんねん。平日は十一時とか」

「へえ」

「だからごゆっくり」

 ムツミはテレビをつけ、クッキーの袋を開けて口に放り込んだ。クッキーは塗炭に落ちる小雨のように自然な音とともに可愛らしい口内で砕け散った。透もそれに促されてムシャムシャ食べた。噛むごとにボロボロと崩れて、屑をこぼさずに食べるのが難しかった。

家には匂いがあった。垢や汗や洗剤が混ざった家の匂いはそこに住む人の持つ匂いよりもはるかに強い。家は人に匂いを付けられるくせに、いつしかその家の住人の匂いを百倍したような匂いを放ち、住人に匂いを供給しさえするようになる。そんな決めつけを頭の裏に置きながら、この居間の匂いはムツミの匂いを百倍したような匂いなのだろうと透は考えた。そうすると、この酒屋のカレンダーや細い竹材で細密に編まれた変わった棚なんかに囲まれ、この匂いの中で育ってきた彼女が初めて少女のように見えてきた。

「ちょっとだけ待っとって」とムツミは断って、その部屋を離れた。


「太田くーん。太田くーん」

 二階の方でムツミが叫んでいる。鬱陶しい。本能的に思った。透は人間が出す大声が嫌いだった。ただでさえ耳から入るものは選択ができないのに、その空間、その場面に見合わない声量で呼び掛けられると、その横暴と支配のストレスに返答ができない。それどころか透は真顔より真顔になって俺はこいつを殺さなくちゃいけないのではないかと考えてしまう。人間にも音量調節のツマミがあればいいのに。透は昔よくそういうことを思った。しかし今回、今回だけは、透は幼稚園児のような発音で「なにぃ」と間の抜けた返事をしている。自分のその声を聞いている。彼女の声には何か人を従順で素直な子供のようにさせる力があるのだ、と透は自分自身に少し言い逃れをした。

「ちょっとー、二階あがってきてー。コップとー、ジュースもー」

彼女の声がまた頭に響き、透はその通りに動く準備をした。

 水滴のびっしり付着したペットボトルを振らないよう柔らかな足取りで階段を登ると、灯りの点いている洋室の中でムツミがこっちこっちと手招きしていた。

「客を一人にすんなよ」と言ってはみたものの、透はその部屋に踏み込むのを躊躇した。アルミフレームのベッドの上に彼女は胡坐をかいている。おそらくそこは彼女の自室だ。さっきは気にも留めなかったが、彼女はいかにも部屋着といった感じのトレーナーに灰色のスウェットパンツを履いていた。三宮のときの衣装の方が好みだったが、それでも悪魔のように似合っている、と透は思った。

「ちょっと部屋片付けとってん」

透は不細工に気負っていたが、部屋に入って自分でベストと思える位置に座ることができた、と自分で勝手にそう思っていた。「ごめん、わざわざ」と彼女を労いながら透は今片付けたばかりという感じの短足なテーブルの上に抱えていたものを置いた。

「いや、別に太田君のためってわけじゃないねんで。私が恥ずかしいから。わざわざ部屋に入れようってのも、私の勝手やし」

 背筋を伸ばしてそう言いながら、ムツミはベッドの上の枕にも使っていそうな薄いクッションを手に取り、透に放った。座布団代わりに使えということらしい。透はクッションを尻の下に差し入れて、「恥ずかしいんや」とほぼ何の考えもなしに言った。冷静じゃないなあ、俺、と透は自分が少し嫌になった。

「決まっとうやろそんなん。男の人を自分の部屋に入れようっていうのに。そりゃ私も身構えるわ。部屋に入れるっていうのはそういう意味も含まれとうねんで? そういうこと考えへんかった?」

 ムツミはそういう冗談が好きらしい。

「やっぱお前うるさいな」と彼女の冗談をいなそうとしながら、透は舞い上がってしまわないよう注意している。それでも口は「他人の部屋に文句つけたりせえへんから」と微妙に外れたことを喋ってぎこちなく、頭は半分も回っていない気がする。

「知っとうけど、嫌な顔くらいはするんじゃない?」と彼女は返したが、それはある種の揶揄なのかもしれない。

「せえへんわ」

 ムツミは口の端に小さな小さな窪みを作って「ほんま?」と透の眼窩を覗き込む。

「いや、よっぽどのことがあればするかもしれんけど。……てか、俺ってそんなに不機嫌?」

「不機嫌っていうか、怖い? 太田君やから、ちょっと部屋を見せるのは恐れ多いような気がする」

「なにそれ?」

「ほら、太田君って嫌いなものをなんか当たり前に嫌いって言いそうやし、もし嘘なんかついたら、お前それは嘘やって責められそうな気がする」

「そんなことはないやろ」

「まあそれは私の頭の中の太田君やけど。でも、太田君に見せたら叱られそうなものを隠したり、隠したら嘘になるなあってものはそのままにしたり、やばい怒られるかもって、ちょっとびびりながら掃除しとってんで」

跳ねるように話すムツミの全体を透は眺めている。

「怖がっとるわりによう喋るなあ」

「怖がるっていうのとはちょっと違うなあ。ただ自分の部屋のものを嫌いとか言われるのがちょっと怖いなあって、それだけ。でも、そういう怖いようなところは太田君のいいとこやろ。私の頭の中の小っさい太田君は、嘘さえつかんかったらそいつにはとことん甘い人ってことになっとうから、大丈夫やで」

「なんじゃそれ」

デヘヘという感じでムツミは笑う。そういう笑い方をする人は好きだ、と透は思った。うるさい冗談はやまないが。

 ムツミの部屋は、確かに女の子の部屋としては変わっていると言えそうだった。クラスの女子の何人かがうっすらと化粧していることにも気付かない透は、同年代の女子がどんな部屋に住んでいるかなんて知る由もなかったが、一般的な女子の嗜好やイメージと妹の部屋なんかから想像すれば、この部屋のおかしさはだいたい分かった。この部屋には友達と撮った写真とか中学の頃の寄せ書きとか、彼女の過去にまつわる物品がない。ミッキーマウスやキティちゃんやピーナッツの仲間たちや動物のぬいぐるみがない。櫛とか手鏡とか8×4とか、学校でよく見る女の子の携行品一式も見当たらない。こんな部屋に住んでいて同級生の女友達と話が合うのだろうか。しかしムツミはこの女の子らしくない部屋を恥じているのではなく、むしろそこに置かれているたくさんの異物が透の嫌悪の対象になりはしないかと恐れている。

それを透が察することができたのは、事実その部屋にあるものが、これまで透が嫌悪の対象としてきたものに類するもののように見えたからだった。

それは音楽だった。






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