小説 「年とる前に死にたいぜ」4

 

「怖かったな、安永」

口を開いたのは椎名だった。

「あいつもヤバいな」と牧は気を取り直してもう一度くつろぎながら言った。

「あいつも何かクスリやっとったりしてな」と椎名は嗤う。

「ああ、あり得るかも」

「それはない」と透は言った。透には彼女の「ヤバさ」がそんな特別で格好の良いものとは映らなかった。あれはもっと正当な、生活の中に潜んでいる、とてもニュートラルな「ヤバさ」だった。クスリなんて非現実的な物を使わなくても、あの「ヤバさ」はずっと全ての人間の中に眠っている。あの狂人じみた眼を俺だってこいつらだって本当は持っているはずなのだ。こいつらは何で分からないんだ、と透は思った。

 仰向けに倒れ、しばらく気絶していたような満身創痍の大原はやっと上体を起こして、女だからどうのこうのと言い訳のようなことをブツブツ呟きだした。顔の火傷は思ったより目立たないが、あちこちの傷が痛むのだろう顔の上半分と下半分が一致していない。周りの三人くらいの男子生徒は何とも声を掛けにくそうで、カッターシャツを着せてやるなり花火の殻を片すなりしていた。教室では最初こそ女子生徒が悲鳴を上げたりしていたが、もうほとんどそちらを向いている者はなかった。皆この出来事を見まいとし、なかったことにしたいのだった。卑猥な落書きがカッターシャツに覆い隠された頃、牧がこんなことを言いだした。

「太田はコウヤサイ行くん?」

 この学校ではいつの頃からか知らないが体育祭の後に「後夜祭」というのが毎年ある。それは写真を撮ったりとか去年の生徒会長がアイスを差し入れてくれたりとかする打ち上げのようなもので、体育祭の放課後中庭に残っていると自動的に始まっていく。牧はこれに透を行かせようと言葉を尽くしたが、透はそれを何とか辞退した。元々あまり行きたくなかった、というよりも早く家に帰ってしまいたかったので適当に顔だけ見せて帰るつもりだったが、あの暴力の有様を見たらもうそんなもの一瞬でも行かないという気になっていた。

「付き合い悪いなあ」と椎名は言い、「でもお前自分が興味なかったら何が何でも絶対やらんもんなあ」と笑った。

「うるさいわ」

「じゃあ、俺も行かんとこっかな」と牧は言ったが、透はお前は普通に行けばいいじゃないかと説得して牧を後夜祭に残させた。男前を待っている女の子は多いのだ。

教師が来てホームルームが始まったが、安永睦美は姿を現さなかった。彼女の不在は他のクラスへ出掛けている生徒が多くいたために目立たなかったが、教師の様子を見ると彼女の凶行自体が知れ渡っていないようだった。大原もいつの間にかいなくなっていたが、彼は恥でも感じたのかあのことを大人には口外していないらしい。透はホームルームが終わると、すぐに自転車置き場へ足を向けた。

「アイス。お前の分とっといたろか?」と椎名は聞いてきた。

「ええって、お前にやるわ」

牧は「じゃあな」と少し寂しそうな調子で言った。

「じゃあ、また」

 

 昇降口に着くまでの間、野球部の奴や中学の後輩だった奴や、何人かの知り合いに引き留められたが、透はいずれにも同じようなことを言って上手いこと短時間にその人たちを振り払って行った。透にはそれがいつにも増して面倒に感じられた。

 昇降口を出ると体育祭の形跡は一つもなくなっていた。透はバックネットとかテニスコートとかの辺りを見るとなく見ながら自分の自転車の方へ急いだ。そこには大きな山桃の木がいつもと同じに突っ立っていた。

 自転車置き場には意外な人物の姿があった。安永睦美が透の自転車の辺りに向かって歩いていたのだ。どうも彼女の自転車は透の自転車の近くに止められているようだった。

なぜだか透は願ってもないと思った。彼女は透が自転車を止めている右二台隣りの自転車の籠に黒い鞄を縦向きに投げ入れ、そのとき透も自分の自転車に辿り着いた。

「――太田君、もう帰るん?」

話しかけてきたのは安永睦美の方だった。

透は名前を呼ばれるとハッとして「うん、そっちは?」と慌てて返した。

「こっちも帰るとこ。オモんなさそうやろ? コウヤサイやか」

 こう言って彼女はママチャリのサドルに手を掛け、直にこちらを向いた。自分の自転車の左側に立っていた透と彼女は正対する形になった。

「そうやな」と透も鞄を籠の中に投げ入れた。

「太田君っていっつも自転車ここに止めとう?」

「うん、大体。空いとったら」

「へえ、私は止めるとこ一個に決めてへんねん」

「ふうん」

じゃあここで会うのもこれが最初で最後かもしれへんな。透はそう言おうとしてやめた。彼女に話す言葉としてはあまりに在りきたり過ぎるような気持ちがしたからだ。透は彼女のさっきの眼付を思い出した。相変わらず彼女の眼は大きい。あの輝きはまだ生きている。

「じゃあ」と透は彼女の細い体を一通り眺めてから自転車を出した。透は彼女よりも先に校門を出た。





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