小説 「年とる前に死にたいぜ」2

 

     二

 

十月十一日、体育の日。西高は体育祭だった。西高の体育祭は三年生が受験で忙しいということで二年生が中心となって企画運営する小規模なものだが、勉学に集中せよという教師の思惑に反して生徒はここぞとばかりにハッスルした。メインイベントである応援合戦のダンスの練習のために毎晩集まったり、衣装作りのためにホームセンターに押し掛けたり、愛の告白をしようと吉本新喜劇バリのシナリオを練ったり、運動部の連中だけでなく、チビもデブも肌の白いのも、あらゆる種類の人間が体育祭に臨んで安易な期待感を、学校やクラスや祭り自体に悦楽的な合一感を抱いていた。

西高体育祭では赤、青、黄、緑という四つの団に分かれて、各競技で点取り合戦が行われる。透の所属する二年三組は七組と共に黄団だった。心地よい秋の空の下と校長が言って、黄団の列からは歓声が上がった。黄団は見事総合優勝を果たした。

応援合戦のダンスというのは男女のペアになって踊る。透のペアは午前中に泡を吹いて倒れ、透はペアダンスを一人で踊る羽目になった。透のペアは美人でもブサイクでもない女子で、初めから申し訳なさそうに「お腹が痛い」と言っていたから、多分生理だったのだろう、と透は思った。後で「ごめんね、ごめんね」と何度も謝ってくれた。透は祭やら学校やらに対して合一感も期待感も持たなかったはずで、ダンスの練習だってほとんど出ていなかった。だからそんなことに心が動こうはずもなかった。しかしそのくせ少し残念だった。少しだが本当に残念だった。その気持ちが知れて自分が無性に悲しくなった。俺も皆と同じなのか、自由なんてない、そういう気分になった。

 

二年三組には三橋由美、安永睦美という二人のマドンナがいて、陰と陽、月と太陽のような対比を成していた。三橋由実はその陽の方で、女子バスケットボール部のマネージャーなんかをやっている爽やかなショートヘアの女の子だった。彼女の髪は色素が少ないのか日の光に透かすと赤ん坊のように茶色がかって見え、肌は透き通るように薄く幼い印象を与えたが、体つきは女性らしく腰から尻が大きかった。自意識が強いのか挙動がやや芝居がかって見え、いわゆるブリッ子として一部のブサイク連中からはかなり嫌われていたが、彼女は彼女でそれより強い発言力と支配権を持つ女子を集めてさらに強固なコミュニティを築き上げ、久しく権勢を振るっていた。対して陰のマドンナ、安永睦美は、あまり女子的なコミュニティを作らないアナキスト的人物で、三橋が白いワンピースならこちらは赤いドレスが似合いそうなダークな感じの女の子だった。彼女は去年までバドミントン部に所属していたのだが、今年の四月にどういう訳か辞めてしまった。短かった髪はうなじを隠し肩にかかるくらいまで伸び、少し鬱陶しいくらいになっていた。手足がとても細く、手の平や先の赤い上靴が実際より大きく見えるくらいだった。大きな眼、真っ黒な髪、妖艶、魔性、そしてそれを包摂するカラッと乾燥した砂丘のような清涼感。三橋由美のようにあまり公言はされないが、こちらも根強い人気を誇っていた。

 

この二大美女のうちの陽の美女、三組の太陽、天照大神たる三橋由美とダンスをした幸福な男は、奇しくも透の連れの椎名弘毅という狸のような奴だった。透は三橋よりも安永の方が好きだったが、彼女は朝一度教室で顔を見せたきりすっかり姿を暗ましていた。

一年生にテントやらパイプ椅子の片付けを任せて、二年三組が祭りの後に教室で祝勝会の計画をしたり記念撮影をしたりしてまどろんでいる頃、透は「三橋さんと何かいいことでもあったか?」と椎名に聞いてみた。

「あったと言えばあった、なかったと言えばなかったかな」

椎名は得意げに言って、フフフといやらしく嗤った。透はなるべく機械的に相槌を打つ。

「そういえば太田、お前のダンスの相手、倒れたらしいやん?」と椎名は言った。

「ああ、手島な。熱中症やってさ」

「へえ。それで、ダンスは誰と組んだん、一年?」

「誰とも組まんで。一人でダンス、ダンス」

 透は小さく、滑稽に踊って見せた。

「一人で踊ったんけ?」

「だって他に誰一人余ってないねんもん」

アハハハと椎名はまた嗤った。

「可哀想な奴やな、太田って」

椎名はハハハハと高速で嗤いながら言った。

「うるさいな」と透はちょっと怪訝な顔をしてみたりした。

 癖っ毛の椎名は平板な顔をしているが、バレーボール部のキャプテンをしていて、四組には軽音楽部の彼女までいた。彼女は目立たない感じの、中の中の上くらいのまあまあ可愛い子だった。さらにその上ダンスの相手が三橋由美とくれば、椎名の胸の幸福はとっくに飽和状態だ。透は椎名の憐憫を受け止めた。

「よう。災難やったな」

笑い声に誘われて近寄って来た細くて背の高い男は透の肩を軽く叩きながら言った。これも透の連れで、名前を牧孝也といった。

「よう、牧。お疲れ」

「別に疲れてへんって。大縄と応援合戦くらいしか出てへんし」

牧は透の前の席に後ろ向きに腰掛けて微笑んだ。牧は他人に気を効かせられる優しい男だった。そして身長が一八〇センチもあり、顔が小さく、今風に痩せていて、学校一の男前だった。透は去年までは牧をいけ好かない奴だと当然思っていたが、同じクラスになって彼が異常なまでに不器用な可愛い奴であることが分かって、すぐに好きになった。牧の愛すべきところは色男でありながら硬派で、色男たるがゆえに狭き門と思われて誰にも言い寄られることがないというところだ、と透は考えていた。無論色男は女に人気があったし、牧も女に興味はあったが、それよりも彼は純真で静かな男だった。

「お前佐藤と何かあったんか? えらいニタニタして」と牧は興味もなさそうな調子で透と同じことを椎名に聞いた。

「牧がそんなこと聞くのんて珍しいやん」と椎名は言った。

「そうか?」

「ふふん」と椎名は透の机の上に座って語りだした。牧は透と椎名の顔をかわるがわる眺めて、微笑みながらその話に耳を傾け、ときどき透に何か訴えかけるような顔つきをした。

 その話によれば、椎名は毎晩行われていたダンスの練習の後、キャミソールに体操ズボン姿の三橋由実とファミレスだかマクドナルドだかに行って何度か二人で食事をしたらしい。何でも三橋の中学校の時の親友という人が塾の帰りに変質者に白い液体をぶちまけられ、それが怖いから家まで送ってほしいというのが彼女の願いで、椎名はそれを聞き入れ見事に毎日ナイトの役をこなしたのだという。透は十月にもなって女がキャミソール一丁で出歩く訳はないだろう、せめてジャージくらい羽織らせてやれ、と椎名の味付けの下手さに呆れつつその話を聞くとなく聞いていた。

「それをお前に相談した佐藤って、ビッチかよ」と牧はにやけ、「お前彼女おるんやろう。山口さんやったっけ?」と知っていることを椎名にわざわざ確認した。

「別にええねん、あんな奴」

 椎名はあえて恋人である山口美由紀をぞんざいに扱っているような言い方をした。牧は些細な言葉で人を良い気分にさせるのが得意だった。

「そんな変態、実際に見た人がおるもんやねんな」と透は言ってみた。

「ホンマやな」と牧が同意する。

「最近はそういう奴けっこう多いみたいやで。ラリっとるというか、ネジが飛んどるというか」

「でもそんな奴がこんな都会でもないところにおるんもんやなあ」

牧は前の机に肘を乗せてくつろいでいる。

「おるおる、おるで。いっぱい」と椎名はニタニタしている。「俺ん家の近くでよう見るおっさんはなあ、何か自転車を武装しとんねん。ダンボールで。ほら昔やっとった仮面ライダークウガのバイクみたいに。ヤバいであの人。ちょっと前まで普通の会社員やったのに、自分がヒーローか何かになった気でおんねん。ほんで後ろの荷台にでっかいコンポ乗して、わけ分からん音楽流してめっちゃうるさいねん。そんで自転車漕ぐのがかなり速くて危ないねん。こないだなんか小学生にぶつかりそうになって、えらい揉めよったわ。子供に向かってありえへんくらいキレとって、近所の人ら皆で何とか止めよった。ああいう人は多分何人かに一人どこにでもおるんやろうな」

「ふうん、何かのショウガイ? クスリか?」と透は感心して言った。

「さあ。そうかも知れん。それか、うちの親が言うには会社が上手くいかへんとかで精神的におかしくなったとか」

椎名は相変わらず愉快そうな調子だった。

「そういや前に大学で刺傷事件があったやろ? 女子学生が刺されて重傷って奴。あれ俺の兄貴の大学やねん」

話しだしたのは牧だった。

「エエッ」と透は皆そういった恐ろしげで暴力的な事件とそんなに近い距離で生活しているのかと思わず驚いてしまった。二人が高ノ江ではなく西高のある阿久川市の人であるからなのだろうか。

「あれな、犯人は学生やってんけど、その犯人って奴も普段から結構イッちゃってたらしくて、……学校に食パンを大量に持って来てさ、毎日教室に鳩を入れんねんて。毎日やで。兄貴なんかは鳩を外に追っ払うので講義が潰れて儲けたとか言っとったけど、そいつが捕まった後、うちの兄貴らは薬物の検査とか講習とか受けさせられたらしいから、きっとそいつは何かのクスリをやっとったんやろうって」

 透はその事件のことは知らなかったが、面白くこの物語を聞いていた。牧の低い声はいつもより少し興奮しているようにも、いつも通り冷静なようにも聞こえた。

「その大学ってどこにあるん?」と透は聞いてみた。変な気を遣って大学の名前までは聞かなかった。

「――神戸」

「神戸か。神戸ならクスリなんかいくらでもあるよな。港町やし」と椎名は知ったような風。「ほら、こないだ三宮の商店街で車が暴走してようさん人が死んどったっていうニュースがあったやん。あれも何かの薬物やろ。やっぱり流行っとんねんな」

透はクスリというのが飲むものなのか吸うものなのか、注射器か何かで打つものなのか分からなかった。とにかくそういうものは透には全く現実感がなかった。その現実感のなさに透は腹が立った。




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