小説 「年とる前に死にたいぜ」5

  

     四

 

 安永睦美は椎名や牧と同じく阿久川市の人という話だった。阿久川は大きな川が流れるやたらと広い市だ。椎名も牧も彼女とは違う中学だったという。

 体育祭の翌日、水ぶくれの大原は顔や腕にいくつか絆創膏を貼って登校してきた。しかしそれに関して何だかんだと言う者はいなかった。つまり体育祭は正月や何やのように余韻を残すタイプのイベントではなかったのだ、と透は納得する。運動場からだけでなく生徒たちの頭の中からもあのお祭り騒ぎは一つの跡型も残さず消えている。高すぎる鉄塔の上でカラスが二羽遊んでいる。高圧送電線をぎりぎりに掻い潜ってお互いの飛行能力を試している。阿久川にも高ノ江にもあの高い鉄塔は同じように乱立し、夜にはジーという不気味な音を鳴らした。透はこの音をある時分までミミズの鳴声だと思っていた。そのことを透は思い出した。

 安永睦美はいつも通りに登校してきていて、きちんと授業を受けていた。

 

 それから数日が経ったある日の放課後、透のいつもの自転車置き場には、安永睦美が待ちかまえるように立っていた。

「今日から私もここにしてん」

 透は山桃の木の下でこう言われることを知っていた気がした。それは朝からここに彼女の黒いママチャリがあることを目敏く察知していたからなのだが、そのずっと前からこうなることを知っていたような気がしたのだ。壊したいんじゃない。壊れたい。あの日以来、血流が以前の数倍の速度になったように透は感じる。あらゆる神経、器官、組織、細胞が活性化している。極度に感覚が研ぎ澄まされると一種の予知能力のようなことが実際あるのかもしれない。アマゾンかどこかに生息するある蜘蛛はあんまり感覚が過敏すぎるから、ハンティングのとき獲物の動きを完全に予測できるらしい。透は小学校のときに読んだ学習漫画を思い出す。

「このあと空いとう?」と彼女は言った。

 カラスが大昔の漫画みたいに、嘘みたいに「アホォ」と鳴いた。その声が自転車置き場にも降ってきた。透は何も言わなかった。それでも頭はいちいちずっと冴え渡っていて、カラスの声は音階ごとはっきり聞こえて、ああ変な声だなあとか思っている。体の末端が何か不満でもあるようにウズウズと背骨に何か訴えている。

「なあ、ついて来てほしいところがあるんやけど?」と彼女が言うと、透はみっともなく呻くように「どこへ」という意味を言った。頭の中とは反対に、舌はまるで古いおもちゃだった。

「――暇やねんな?」

 質問の答えは返ってこなかったが、透はこっくり頷いた。

「太田君、いっつも帰んの早いけど、早く帰る理由とかあるの? お家の事情とか? 病気の妹が、とか?」

 きれいな形をして笑う唇がまるでスローモーションみたいに動く。

「いや、ない。そんなん」

即座に透は否定した。冗談混じりでも安永がこんなことを気にするなんて少し意外な感じだ。とにかく彼女の声によって透はいくらか熱を冷まし、舌や顔面の筋肉を落ち着かせ、澄みすぎた感覚を適度に濁らせることができた。やっと人間相手に会話ができる身体になった。透はいつも早く帰るのはただ少しでも早く帰りたいだけのことで、家に帰っても別にゴロゴロするだけだということをなるべく柔らかい言葉で付け足した。

「フフッ」と彼女はほとんど奇跡のように笑って「今日も早く帰りたい日?」と聞いた。禿げたセーラー服と黒い自転車の境目は本当の暗黒の色をしていた。透はその下の彼女のくすんだ膝をママチャリのフレーム越しに見ていた。

「じゃあ、ちょっとついて来てな」と彼女は言った。

 

 透は黒いママチャリの後をついて行く。自転車で他人と走るのは気持ちが悪い。自転車の素晴らしい所が死んでしまう。足で自由を踏み締めるというあの感覚がなくなってしまう。透はそんなことを考え、皮膚が肉から離れるような全身の不自由を感じながら、よく知らない美人の揺れるお尻を見つめていた。

 高架下を抜けて、トラックがビュンビュン通る脇を一列になって走っていく。いつもの半分くらいのスピードがもどかしい。自転車ではひどく走りにくい道路だ。こんな道には来たことがない。安永睦美は歩道の上を走る。歩道は短く区切られていて、次の歩道に渡るたびいちいち段差がある。歩道の列島を一つ一つ渡っていく。透もこれについて行くのだが、新しい歩道の島に上るとき、尻に堪え難い衝撃が来る。透の安い自転車の籠は外れてしまいそうだ。籠に放り込んだなりの鞄を必死に片手で押さえるが、そうするとハンドルを取られそうになる。透は今までにないくらい前腕に力を入れてハンドルをきつく握り、パラパラと乱れる女の髪の後ろで、その尻を追った。

「ちょっとここで待っとって」

 行き着いた先は多分彼女の自宅だった。小さな一軒家だ。庭はほとんどなく、玄関先には柊の生垣があった。軽自動車が一台置けるガレージがあり、増築か改装でもしたのだろう外壁に綺麗なところと古びたところがある。ガレージの奥には水撒き用の水道があって、近くに土だけ入れられているプランターと如雨露と五リットルの腐葉土の袋が二つ置いてある。春にはパンジーでも咲くのだろうか。安永の母親が水を遣るのだろうか。まさか安永睦美が花に水を遣ったりはしないだろうが、と透は思った。透は背中に汗を掻いた。自転車を漕いだだけなのに体は熱を帯び、そこの水道で頭から冷水を被りたいくらいだった。

 透はこれから何が起こるのか予測できる気がしたが、具体的には見当もつかなかった。頭のずっと奥の方では知っているのに、イメージとしては湧いてこないという感じだ。透は理知的に考えることにした。ほとんど知らないに等しいようなクラスメイトをわざわざ自宅へ連れて行って、しかも玄関先で待たせる。なぜ俺なのかはともかく、ここは中継地点に過ぎず、来てほしいところというのはどこか別の場所だろう、と透は思った。

「悪いね」

 芝居みたいにそう言って安永睦美は再登場した。彼女はよく分からない男の絵柄がプリントされたグレーに近いライトブルーのTシャツにカーキ色のアメリカ空軍みたいなワッペンが胸に付いたミリタリージャケットを羽織り、細い黒のズボンを履いていた。靴はコンバースの黒だった。それは透の見たことのある最近の女の子のファッションとはかけ離れているように思えた。あの安永が普通の女の子みたいな格好をするわけはないということは想像できたのだが、それでも土っぽい、工場か戦場のような色合いは透には意外だった。そしてその衣装は恐ろしく彼女に似合っていた。本物、という感じだった。

「それで、自分だけ着替えてどこ行く気なん? 着替えについて来てほしかったっていうんじゃないやろ?」と透は言ってみた。

「もっかい、自転車乗って行くで」

「だからどこに?」と透はもう一度訊ねる。

「どこって、駅」

「駅って、阿久川の? それ学校の方やん。じゃあ、またあの道引き返すん?」

「そうやで」と安永睦美は平然と答え、「もしかして疲れた? あがってお茶でも飲んでいく? うわっ、何かこれおっさんがホテルに誘うみたいになっとうな。まあ、ちょっとくらいならいいんやで。カントリーマアムしかないけど」と要領を得ないようなことをわざと言って、フフッと笑った。変な話し方をする奴だなと透は思った。もちろん彼女もこのあたりの方言で話すが、発音が透と同世代のものと微妙に異なっている。東京の大学へ行っていて、その反動で余計方言が強くなったという透の母親の発音にも似ているような気がしたし、岡山や広島の訛りが混じっているような感じもした。

「どうする、あがる?」と言いながら安永睦美はもう自転車に腰かけている。

「いや、行こう」

 透は自分の自転車を方向転換させた。

 



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