小説 「年とる前に死にたいぜ」8

 

     六

 

 飲み帰りのサラリーマンやゲロを吐く大学生を尻目に、満腹のムツミは透を生田神社よりさらに北へといざなっていった。今度は本当にわけの分からないところへ連れて行かれそうだと透は不安になりながらも足取りは軽くなっている。

「太田君、太田君。ここ、ここ」

 そこは五階建てくらいの小奇麗な雑居ビルで、五階には飲み屋が入っているのが分かったが、それ以外は何に使われているのか透には不明だった。しかし「MONDO TOPO」と書いてある矢印型の光る立て看板があって地下への階段を指示しているから、地階にも何か店があるのだろう。彼女の目的地はその地下であるらしい。彼女はその階段の入り口に立っている男からチケットのようなものを買って、一枚を透に渡した。

 人が多い。若い奴。大学生? 高校生か? うるさい。俺と同じ世代が。

 透は何となく彼女のそばにいてやらなければという気になって、あたりに注意しながら彼女の前へ出て階段を下りていった。中に入ると教室を上下左右に二つずつぶち抜いたくらいの薄暗い空間があった。太い柱の下にはそれぞれ巨大なスピーカーが置いてあって、奥の方は赤や黄、青、紫のライトで照らされ、ドラムセットやマイクスタンド、アンプなどが置かれたステージになっている。ステージの脇にはネオンで装飾されたカウンターがあり、ポテトチップスやアメリカンドックやドリンク類を売っている。ムツミがそのカウンターへ行くと言うので、透は人垣をかき分けて彼女の通る道を作りながら奥へと進んでいった。結構速くても彼女はすいすいついてきた。

「さっきのチケット出して」とムツミは言ったが透には聞こえなかった。ホールは暗くなり、ステージにはバンドが出てきて演奏を始めた。低音は壁を揺らし、高音は耳の奥を揺らし、透はそんな大きな音を初めて聞いたので、ただその音量にたまげてしまった。透は音楽が嫌いだった。

 ムツミがチケットを出し、顔の前でひらひらさせているのに気がついて、透もチケットを取り出した。ムツミは首からIDホルダーを掛けた男にチケットを渡してメニュー表のドリンク欄のサイダーと書いてあるところを指さし、男から紙コップを受け取った。透はやはりそのやり方に従って同じものを注文した。サイダーがそのメニューにあることを透が不思議に思ったのは、昔市民プールで飲んだサイダーが意識の裏に残っているからだ。サイダーは市民プールのものだった。

 二人はしばらくカウンターのそばでバンドの演奏やそれに押し寄せる前の方の客、絡み合うカップル、二十代前半に見える女とその女にしがみついて泣く子供なんかをぼんやり眺めていた。ムツミは特にバンドやその音楽に興味があるわけでもなさそうだった。さっきのカウンターでは、なぜかサイダーばかりが飛ぶように売れている。透は何となく飲み物に口を付けないでいた。

「ちょっとトイレ行ってくるわ」と恥ずかしげもなく言ってムツミは便所へ行ってしまった。床にこぼれたビールの臭いが透の鼻まで立ち昇ってくる。バンドのボーカルが客を煽り立てている。その歌声は弱々しく、ぬるぬるして、いかにも上手そうに勿体ぶって歌っているアマチュアという感じで、人の感情に訴えかけるものがただの一つもない。ギターもベースもドラムも存在しているけどもそこに立っているだけという感じ。透はどうしても彼らの頭に弾丸を撃ち込みたいと思ってしまう。要はこいつら嘘つきだ。本当は音楽も楽器も何もかも好きなんかじゃないんだろう。本当のことは一つだ。それだけだ。

 しかし客はこの歌に熱狂している。波を打ってステージに押し寄せている。カップルは最高潮に達している。母親は子供を忘れて涎を垂らしながらその音に合わせて跳ね回り、ある人は涙さえ流している。透にはこの有様は虚構としか映らなかった。まるで熱のある死人だ。嘘だ。そうでなければこいつら全員狂っている。何か異常なものがこいつらの頭に入りこんでいるのか。

 透は便所の方へ移動して彼女を待とうと思った。今ここにいる人間は皆彼女の敵そのものだった。彼女のそばにいよう、と透は自分のためにも彼女のためにも、そして多分ここにいる全ての人間のためにもそう考えたのだ。

 透は女子便所への入り口の前でまた群衆を見た。次のバンドのボーカルが何か喋っている。群衆にはお互いの会話はなくて、喋るにしても返事のいらない歓声とその同調の言葉だけだ。彼らは歌い手の声を本当に待ちわびているかのようだった。彼らにとって言葉はそのまま彼らの存在だ。言葉は透の前を滑っていくだけなのに、彼らはそれによって完全に保証される。武装される。

「どうしたん? こんなところに」

肩に手を掛けて耳元で囁いたのはムツミだった。「心配して来てくれた?」と彼女がもう一度透の頸のあたりへ顔を持っていくと、透は行方不明になっていた身体の一部が帰ってきたような、安堵のような興奮のような、妙な感覚に陥った。

ムツミは肩から手を下ろさず、透は右手に持っていたコップが軽い結露でシナシナになりかけているのに気付いてあたふたとそれに口を付けた。そういえば彼女はさっきの紙コップを便所へ持っていったのだろうか。

サイダーが喉元を過ぎると、まず前頭葉にガンという衝撃が走って、その後体中に体験したことのない何かが走った。まるで全身を百万本のハンマーで叩かれたような感覚。しかし痛みではない。透の身体は小学校のマラソン大会の後のような感じになった。脚が震えるような気がするけど震えていない。声を出しているような気がするけど出していない。重力、壁や天井との自分の距離、そこらに立っている人間との距離、全てが曖昧になる。頭の中で自分が一度も考えたことのない会話が聞こえる。頭の中の誰かと誰かの会話には透の知らない単語が出てくる。彼らは見慣れないところで話している。彼らは透が作りだした幻想のはずなのに、透とは全く異なる記憶を持っている。それが頭に染み込んでくる。彼らは透ではないどこかの誰かだ。どこかの誰かの脳が自分の脳に溶け込んでくる。しかしそれは透でさえ気持ちがよく、抗うことのかなわない快楽だった。

ムツミが慌てたように紙コップを取り上げる。その光景を最後に、透は意識を失った。








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